第五話
「猫」

「あれはもう、40年以上も前のことになります」
 伊藤は禿上がった頭を揺らして、空を見上げた。

 1968年。まだ道路建設が日本の希望であった頃。

「幽霊の話がでたのは夜間工事中のことでした。昼夜連続工事でした。大変でした。でも、やる気はありました。喜びもありました。私はまだ、24でした。まだ道路公団時代でね」
 映像の中の伊藤は、目を細めて笑った。
「そう、それで見たんですよ。幽霊を。最初はそういう霧か何かが出たと思ったんですが、毎日出るようになって気味が悪いってんで建設作業者が集まらなくなってね。予定が狂うって、みんな大騒ぎでした」
 思い出すように伊藤は腕を組んでいる。笑いは絶やさない。
「それで、東京から偉い先生がやってきてね。戦争中は戦闘機の設計やってた人で、なんて名前だったか忘れてしまいましたが、幽霊は遠くの映像で、大気の揺らぎであんな風に見えてるんだって、そんなことを言いまして。ええ、それからはまあ、見えているだけなんで、大した問題にもならずに建設を続けました」

 伊藤はしばらく考えたあと、頭を振った。
「幽霊って呼ばなくなったのはその頃ですよ。大阪万博? いえ、その前です。公募で決まる前から希望って名前でした。今から聞くとなんとも古くさいし、時代がかった名前ですよね。エルス……希望世界って名前は」

 苦笑したまま、言葉を続ける。
「ちょうど最初の息子ができたんで、休みにマイカーで見せに行きましたよ。そうそう。息子喜んでね。当時流行していた特撮のヒーローみたいだって。おかげで今もエルスには悪い印象ないんですよ。土に埋めたら見えなくなるってことが分かってからは、見えるところがどんどん減っていってね。最後はお別れ会ってやつをやって、みんなでエルスを見送りましたよ」

 伊藤はカメラを見る。話を聞いている風。
「そうですか。また、あれが、見えるようになったんですか……」
 ノートPCの画像を見せられ、小さく声をあげる。
「ああ、前と同じだぁ。ああ、いや、でも少しやつれたかな。どうかな。……また、見たいですねえ」

 映像はここで終わりだった。
 会議室の明かりがつく。
  和歌 わか は腕を組んで、岩井の顔を見た。
「僕も特撮ヒーローみたいだと思いましたよ」
 岩井は和歌の顔をまじまじと見る。本気か、と尋ねるよう。
「画像鮮明化された画像、見ましたか」
「あー、見ました、見ました。あの美女、というか、かわいい女の子。いや、特撮ヒーローに見えたのは肉眼で見た時の感想ですよ。いや、どこをどうやって鮮明化したらああなるのやら」
 なにせ銀色と赤色で、目が光っていた。
「ネガ・ポジみたいなものだったんですよ。色が変調してたんです」
 岩井は実際に色を変えて見せた。色が変わるだけで、急に人間ぽく見えるから不思議だ。
「なるほど。光の加減で大きく見えていたんですかね」
「まあ、少しは」
「少し?」

 岩井は別の角度から見た画像を会議室のスクリーンに表示した。鮮明化のせいで随分角張って見えるが、これは輪郭を太く補正しているのであろう。
「わかりにくいかもしれませんが、分析によれば、彼女のあちこちから垂れているこれはたぶん、 縄梯子 なわばしご 。そしてこれがそれをよじ登っている猫の軍団です」
「はぁ」
「猫のサイズが同じ程度とすれば、彼女の大きさは9mを越えている」
「猫がなんで梯子を上っているんですか?」
 岩井は肩をすくめた。どうやら分かっていないらしい。
「エルスについては分からないことばかりで」
「エルスって幽霊のことですか」
「ええ。自称です。たぶんね。彼女の口の動きを読唇術で呼んで、かろうじてそれだけは読みとれています。実際は名前なのか歌詞なのか、あるいは猫の名前なのか、何もわかりません」

 つまり何も分かってないに等しい。和歌としては苦笑しか出ない。
 岩井も笑っている。ただ、苦笑ではなかった。楽しんでいる顔。
「彼らの住む世界は希望世界と、政府はつけています。まあ、41年も前の話ですが。大阪万博で公募して名付けられたという話になってますが、まあ、出来レースだったみたいで」
「なるほど。まあ、名前については良しとしましょう。問題は3年後には第二東名が供用開始していなければならないってことです。この件について政府は何と?」
 岩井はいい笑顔。まあ、緊急性も高くないし、対応法も分かっているとなれば、何も言ってこないか。
「設計変更してちょっとかさ上げして埋め戻しましょう」
「それを決めるのはNEXCO中日本だよ」
「じゃあ我々は何のためにいるんですか?」
 和歌の問いかけに、岩井は笑顔を浮かべたまま口を開いた。
「エルス対策。同じじゃないですかと言いそうだから、あらかじめ言っておくとね、違うから。土をかぶせれば本当にエルスが見えなくなるのか、それも怪しい」
「でも40年前は出来ているんでしょ」
「それで解決するなら、こういう会社作る前にもうやっていますよ」
 それもそうかと和歌は思って、椅子に座りなおした。目の前を尻尾を立てた猫が通り過ぎていく。

「……じゃあ、どうすれば。あと、オフィスに猫はちょっと」
「大きさ比較用です。で、どうすればいいかと言えば、何もきまっていません」
 岩井の言葉が遠くに飛んでいくのを和歌は見送った。
「何も」
「ええ、何も決まっていません」
 やっぱり、左遷だった。
 和歌は椅子の上でひっくり返った。猫が股を開いて毛づくろいしている。