第四十七話
「トヨタ」

 夜明け前になるとオカザキは寝床から出て、外に出る支度を始めた。
 髪を厳重に いて服を着替え、水盆を鏡に顔を見ている。正直、面倒くさくてハママツには真似できぬ。おかげで髪はところどころで跳ねていた。

「ねえねえ、私もついていっていい?」
 ハママツが言うと、オカザキは目を点にしたあと、口を開いた。
「家でゆっくりしていただいていても。私は仕事に行くんです。工房の」
「工房ってなに?」
「染色が主なんですけど、被服の製作や修理もやっています」
 そういえば、領主は服屋と言っていた。職業名で呼ぶことは、それを知ることは婚姻の意味がある名前を隠すには丁度良いということなのだろう。
 しかし子供が200もいれば、実際忘れていることもあるかも知れない。すごい人物もいたものである。
「私、染色っていうの見てみたい。どうせここに居ても暑いだけだし、いいでしょ?」
「まあ、そういうことなら。私の服を使ってください」
 オカザキから服を借りて着替える。胸と腹が苦しいような気がするが、気にしない事にする。
 フジマエは交替もせずに寝ているのか、結婚反対とか寝言を言っている。
 反対だけでは意味がないでしょ。対案出しなさい、対案。と思うのだが、異世界にはそういう考えがないのかもしれない。

 着替え終わって外に出る。汗ばむような季節のはずだが、この時間ではいっそ寒く感じるほどだった。昼の熱気を建物が溜めこんでいたのかもしれない。
 町外れとは山全体が都市であるこの地においては、山を下りた麓を意味する。毎日朝山を下りて夕に山を上る生活をしているわけだ。大変だなと思った。
 通行量が多いせいででこぼこになった石畳の道を歩き、特に会話もなく山を下る。薄い底のサンダルは足に響き、入っている小石は足の裏を傷つけた。
  NEFCO ネフコ が作らせた靴は優秀だったのだなと、たびたび思うことを思った。もっとも、だからといってフジマエを誉める気にはならない。むしろ文句が言いたい。

 朝日が出る頃、川近くの染色場へ出る。場といっても床もない、おおざっぱな木の建物がいくつか立っているだけの寂しい場所だった。
 染色は魚が死ぬとかで嫌がられ、漁港の反対側にある寂れた場所に作られたのだという。ここは水深が浅くて船が着かぬわりに、貝もいないという話だった。
「昔はここに毒が流されたんだそうです」
 オカザキはそう説明した。そのおかげで染色場を作ることが出来ているとも。
 世の中は単純に出来ていないということだろうか。
 秘伝の染料が入った壷に布や糸が入れられ、棒で絞られて水洗いされて土間に干される。なるほどこれが染色工場、大規模なものだとハママツは感心した。個人で細々と草木染めをしていたハママツとは違う。
 特に目をついたのは一際大きい布で、大きさは一辺が20歩ほどもあるものだった。この布一つで家が立つような、そんな大きさである。
「この布、なんに使うの? 旗?」
「いえ、服の一部です」
 何を言っているんだこの人はと思ったら、向こうから楽しげなにゃあにゃあという音がしてきた。
 首を曲げて見れば地響きがないのが不思議な光景が広がっている。
 生きた猫をじゃらじゃらと吊り下げた巨人の娘が、上機嫌でやってきていた。大きさは人の10倍はあろうか、ハママツは口をあけて見るしかなかった。
「染色はどう?」
 ハママツの顔を横目で見ながら巨人は言った。長い髪を止めているのが生きた猫だと知って、びっくりした。
「順調です。大きいので色は均一ではないですけど、どうにかします」
 オカザキは作業の手を止めずに言った。どうやら知り合いのようだった。
「巨人……まだ生き残ってたんだ」
 巨人とオカザキが、同時にハママツを見る。
「あ、この人はですね、領主さまの奥様になるかもしれない人で」
”反対だ!”
 返事する前に頭の中で返事が聞こえた。どうやら眠りから覚めたらしい。
”いや、あんたが言っても聞こえないから”
「聞こえますけど」
 巨人がそんなことを言う。ハママツはびっくりして巨人を見た。目が合う。大きいが、とてつもない美人だった。息が止まりそう。
 髪飾りをやっている猫が、そりゃ本当だぜという感じで頷いている。
「悪霊と話が出来るの?」
 おそるおそる、そう尋ねたら苦笑された。
「NEFCOでしょ? まあ、悪霊じゃないけど悪い男かなあ」
「やっぱり」
”なんだそりゃ!”
”悪い男じゃないならなんなのよ。ほら、言ってみなさい”
”いや、だから、僕は大人として……”
 ハママツは巨人を見た。
 巨人は分かるという顔でハママツを見た。頷いている。ついでに髪飾りをやっている猫も頷いた。
「悪い男よね」
 巨人はしゃがみこむと、わざとらしく目を大きく開けて言った。
「ええ、まったく」
 ハママツはそう返した。猫も頷いている。
「にゃー」
「え、え、何のことですか? お父さん? じゃなかった領主さまは、えー、まあ、その人としてどうかなとは確かに思いますけど、いや、でも領主としてはそんなに間違ってないと思います」
 フジマエの声が聞こえぬオカザキが、おろおろしながら言った。
 巨人とハママツは笑った。身体の大きさなど、悪い男に傷つけられた経験の前には何の関係もないというやつだった。
「私はトヨタ。ハママツ、でしょ?」
「あ、うん。ハママツっていうの。旅の吟遊詩人なの」
 トヨタという巨人は、遠い目をして笑った。
「ネフコって悪い男ばっかりよ。奥さんいるのに優しい男とか」
「気がないのに優しい男って、死んでもいいと思いますよね」
「ねー」
”……もしかして、荒木さんのことか”
 ハママツは瞬間的に激怒した。オカザキが右のハママツを見て左のトヨタを見てまた右を見た瞬間にはもう激怒していた。
「よし、味方するね」
 トヨタは巨大な手を振り回し、突風を起こしながら言った。
「ちょ」
 オカザキが止める間もなく、ハママツが頭を下げた。
「お願いします! フジマエ! 今日がお前の最後だ!」