第三十一話
「誠実」

 実のところ、老人以外の人間と話したことはほとんどない。それで、頭の中で落ち着いた男の声が聞こえた瞬間、ひどく緊張した。

”ナガシノさん。聞こえるだろう”
 顔が、赤くなった。
 船が沢山沈んでいる海岸を見て、小さな蟹が歩く砂浜を見て、爪の生えた尻尾の長い鳥の飛ぶ空を見る。もう一度地面を見て、何を話そうかと必死に考えた。
”ああ。いえ、はい聞こえ……ます”
 ど、どう話せばいいのかと姉を見るが、シタラは尻尾を振るだけで、何も言わない。
「もーおねえちゃん! なんか言ってよ!」
「人間に慣れなさい」
「いきなりは無理だよ!」
 シタラは目を細めて尻尾を振っている。まあ、頑張りなさいという感じ。
 ナガシノは恨みがましい顔で姉を見た後、頭の中に聞こえる声に神経を集中した。

”言葉遣いには気を使わないでいい。悪いが、たぶんそこで体育座りして拗ねている娘っこを抱きしめてくれないか”
「抱きしめる!?」
 あ、自分の声が変だと思ったが、それどころではなかった。
”ああ。すまないが、頼むよ”
 そんなこと言われてもと、姉を見る。白い大きなモフモフの姉は、のん気に魚を狩っている。
 恨みの目線を送って、体育座りで涙目のハママツを見た。何で泣いているのか分からないが、まるで小さな子供のよう。自分が小さい時はどうだったか考えて、いつも姉に抱き着いていたことを思い出した。
 まあ、それと同じと思えば、分からなくもない。それにしても最近の姉の冷たいことよ。今日寝る時は厳重に抱き着いて寝なければなるまい。

 しかし。姉はともかく、それ以外のものに抱き着くのにはかなりの抵抗があった。なんというか、毛がないものに抱き着くのはちょっと……という感じ。
 姉が人間に慣れなさいと言ったのはそういうことか。いや、でも、変な気分になったらどうしよう。そもそも変な気分ってなんだ。
「え、え。でも、私はその、そういうのやったこと、ない……」
”ああ見えてひどい寂しがり屋なんだ。頼む”
 落ち着いた声で言われたら、慌てている自分が変にも思えてきた。そもそも自分の小さい時と同じような心境なら、さぞ心細かろう。急に人がいないところに来たせいかもしれない。
 深呼吸して胸を張った。
「あ、姉上にしているような感じでいいだろうか!?」
”それでお願いする。それと、ついでに背中を何度か軽く叩いて大丈夫、大丈夫と言ってやって欲しい”
「わ、分かった!」
 右手と右足を同時に出して前に進み、もう一度深呼吸して飛び込むように抱き着いた。勢いあまってハママツを押し倒してしまった。目を回している。

 まち、がっ、た。

「ど、どうしよう。おねえちゃん! おねえちゃん!」
 シタラは面倒くさそうに尻尾を振っている。
「こっちは必死なんだよ! おねえちゃん! おねえちゃん!!」
 騒いだら、観念したのかシタラは仕方なく四本足で歩いてきた。
「抱き着くくらいいつもやってるでしょ」
「で、でもいい匂いがするんだ!」
「はいはい。干草の匂いもいいと思うけどね。抱き着く抱き着く」
 前足で押されて至近距離。ナガシノは顔を赤くしてハママツを見た。ハママツは何が起きたのかという顔をしている。
「うう、えーと。ごめん!」
 抱き着いて背中を叩いた。
「痛い! 痛いってば!」
「ダイジョウブダイジョウブ!」
「何が!?」
 シタラは目を細めてハママツにすりすりした。
「妹はあなたの心配をしているのよ」
「心配?」
 押し倒されるのはよくわからないが、獣にみせているようだった。
「通信の向こうも心配している。大丈夫っていうのは、向こうからの言葉」
「だ、大丈夫って何が。全然大丈夫じゃない。フジマエは嘘ばっかりだし」
 ナガシノは不思議そうに顔をあげた。
「そうだろうか。とても誠実そうに聞こえたが」
「耳、おかしいんじゃない?」
 ナガシノは首をかしげた。
「そういう風じゃなかった。とても心配していたのは確かだし、嘘をついているようにも聞こえなかった」
 実のところ、ナガシノは頭の中に響いた声をもってそれがフジマエだと思っていた。イワイとフジマエを取り換えて間違えていたのである。
 シタラは間違いに気づいていたが、何も言わずに尻尾を振った。
 ハママツはしばし考えたあと、慌てた。
「し、心配? いつものように知らないことをわーわー言って、勝手に怒ったりじゃなくて?」
「そんな感じではなかった」
 あれーと、胸にナガシノを抱きしめながらハママツは首を傾げた。
 というよりも、誠実な声も心配そうな声も、自分は聞いたことがない。酷いと思った。自分にこそ必要ではないか。そういうことは。武器も持たずにこんなところまで歩いてきたのに。
”ちょっと! どういうこと!?”
”……すまなかった”
 しおらしいフジマエの声。あ、確かに心配してそうだった。それで、ハママツは気分を戻した。ナガシノの頭を撫でながら、ハママツは横を向いた。