第二十九話
「吟遊詩人」

希望世界 エルス ・藤枝

 私が大股で吟遊詩人さんの横に並ぶと、吟遊詩人さんは一度瞬きして、剥き出しになったお腹を中指で掻いた。
「朝食に行くんじゃなかったの?」
「そうなんですけど、喧嘩しまして」
 正直に言ったら、ちょっと困った顔をされてしまった。まあ、分かる。揉め事には巻き込まれたくないものだ。
「お姉さんの事で?」
「あたしの事で?」
 吟遊詩人さんはさっきまでお腹を掻いていた中指で自分を指さした。私が頷くと、寄せ目にして視線を上にした。意外にひょうきんなところがある。
「あー、なんでまたそんなことに?」
「話せば長い事ながら、吟遊詩人さんにスパイの疑いが」
「それ日本語?」
「日本語です。間者と言う意味です」
 吟遊詩人さんの表情は窺い知れなかった。さすが大人と言うところか、表情が変わらない。
「んで、それでなんで喧嘩に?」
「疑いがあるだけで遠ざかるのはおかしいって私言ったんです」
「うーん。それは君の友達の方が正しいんじゃないかな」
 えー、という私の表情を見て、吟遊詩人さんは笑った。私に手を差し出した。
「私、ハママツさん。あなたは?」
「私はシミズ、です。あと、この小妖精はモリマチさん」
「そういう呼び名を持っているということは、 NEFCO ネフコ の関係者なわけね」
「ええ、まあ。もっとも私は後期になってからの教育プログラム参加者で、初期の方の協力者とはまた違うんですけど」
「ああ、うん。よく知ってる。私の時に色々苦労したのよ。それで、人の教育から始めなきゃダメだってね」
 ハママツさんはダメだって言うときだけ胸を張って偉そうに言った。誰かの真似らしい。面白おかしい真似の割に、その人の事が大好きなんだという感じがあった。にじみ出るというか、好きが内側から輝いているというか、そんな感じ。ああ、素敵だなと思った。きっとこれは、ハママツさんを内側から輝かせているのは恋なのだろう。
「初期のNEFCO関係者」
「昔は通信という概念がなくて標霊って言ってたのよ」
 確かに、遠い道のりを感じさせるものだった。そうか。つまりはハママツさんは私の先輩という事になるのか。
「大先輩と呼んでもいいですか」
「大とかいらないから。ハママツさんでいいよ」
「えー。じゃあ先輩で」
「先輩! なんか恥ずかしいんですけど」
 私の感覚的にはお腹見せて歩いている方が余程恥ずかしいのだけど、ハママツさんにとってはそういうわけでもないらしい。彼女は照れながら歩いている。しかし、まんざらでもないようだった。
「先輩はNEFCOと連絡切れてからどうしてたんですか」
「んー。私の場合は色々あって、その前に連絡途切れちゃってね」
「え、先に切れたんですか」
「まあ、うん」
 ハママツさんは頬を掻いたあと、真面目そうな顔で私を見た。
「話してあげてもいいけど、聞いたら回れ右して友達のところに行って謝ること」
「私は間違ってません」
「そういうんじゃなくて、友達は大事って話。それにそのスパイって奴で私が疑われてるなら、確かに近づかない方がいいわよ。私もなんかヤだから、この街を離れることにするわ」
「掛川に半巨人の部隊がいますよ」
「そうなの? じゃあ、それも避けなきゃね」
 ハママツさんはそう言った後、楽器を取り出した、軽く爪弾いて私の顔を見る。
「それはちょっとした恋の歌」
 ハママツさんは右も左も分からぬ小娘の頃、耳の中でがなりたてる悪い精霊に恋をした。
 なんで恋したのかは、今でもよく分からないという。いや、本当は分かっている。耳元でずっと心配されていたから、それで好きになったのだと。
 楽器をとめてハママツさんは懐かしそうに苦笑いした。
「めちゃくちゃよね。相手の姿だって見えないんだから」
「音声のみの通信の時代があったんですね」
「そうね」
 旅の終わりで彼女は互いの想いを確認した後、別れる事になったのだという。手を触れられないのが悲しくて、それから逃げ出したと、ハママツさんは歌いながら言った。
 私とモリマチさんは思わず泣いた。ハママツさんは笑っている。
「それでもう、NEFCOとはおしまい。今は旅の吟遊詩人ってわけ」
「そんな悲しいことって……」
「悲しくはないわよ。むしろ、いいことだって思ってる。だって、それから後に幻滅するかもしれないでしょ。私は一番いい時に恋を終わらせてやったの」
 どう聞いても強がりだったが、彼女は笑ってそう言った。それから私の肩を握ってくるりと回すと、背中を押した。
「で、そんな先輩からのアドバイスなんだけど、友達は大事だよ。どんなに最低の状況でも、友達のためなら頑張れる。それが本当」
「でも」
「いいから、いいから」
 ハママツさんはいい笑顔だった。私にはとても真似できないような、深い笑顔。
「謝ってくること。大丈夫。向こうだって反省してるわ」
 それはない。フジエダさんは自分勝手で頑なだ。あと手が早い。
 私は嫌がったが背中を押されて、それで何歩か前に歩いた。
 振り向くとハママツさんが笑っている。笑顔の方が背中を押す力が強い。私はそれで、とぼとぼと歩き出した。