第二十八話
「間者」

希望世界 エルス ・藤枝

 その日はなかなか眠りにつくことが出来なかった。まさかの個室だった、というのもあるし、床につく時間が早かったというのもあるが、より大きな理由としてはあの吟遊詩人さんだろう。頭の中ですらうまく再現できないものの、あれはとても素敵な、素敵な歌だった。もう一度聞きたい。日本のアニソンにも負けてない気がする。そもそも方向性が違うけれど。
 あの人が実際岡崎の間者なのかどうかは分からないけれど、なんとか生きて欲しい。
 そんなことを考えて、眠りについた。

 目覚めたのは夜明けの少し前くらい。皆起きて板張りの廊下を走るものだから音と振動で目が覚めてしまった。寝台から起き上がってちょっとだけ戸を開けて廊下の様子をうかがう。夜明け前は、まだちょっと寒い。
 多くの女の人が張り切って動いていた。おそらくは 朝餉 あさげ の準備で動いているのだろう。職人仕事は手元がよく見えないと仕事にならないだろうから、太陽が上がるまでは仕事ができないだろう。逆に言えばそれまでの時間に仕事前の支度をやってしまうはずだ。
 邪魔にならないように付いていく、何か手伝おうと思ったのだが、その隙がないくらい、皆、素早い動きだった。10人くらいで並んでナイフを使って料理を作っている。昨日の蛙の残りというか上半身はスープに使われてるらしく、大きな鍋で煮られていた。うちの村ならデカイタチにあげるところだ。
 それにしてもここの人たちの動きの速さを見ていると、フジエダさんが肉体派になったのも分かるような気がした。なるほど、環境が彼女を作ったのか。
 そういえばフジエダさんはどうしているかと思ったら、外にいた。外でリフティングをしていた。誰にも声を掛けられず、仕事も手伝わずに延々リフティングをやっている。
 不意に、彼女の小さな頃を見たような気がした。小さなフジエダさんも、やっぱり一人でボール遊びに興じていたのではなかったろうか。邪魔になるとか、そういう理由でひとりぼっちだったに違いない。
 そう思ってたら、なんか可哀想になってきた。と思ったら、ボールが頭に当たった。
「ごっめーん。朝から辛気くさい顔してたからボールが当たっちゃった」
「実家の手伝いもしないでボール遊び頑張ってる割に、ミス多いのね」
 フジエダさんと私は同時に拳を交えて殴り合った。が、次の瞬間楽器の音がして取っ組み合いの格好のまま、喧嘩を中断することになった。道の向こうで吟遊詩人さんが小さく手を振っている。
「朝から喧嘩なんか、良くないよ」
「そうですよね」
 私が手を離すと、フジエダさんは傷ついた顔をして私の口を右に左に引っ張った。
「何するんですか」
「ばか、昨日のお母さんの話聞いたでしょ?」
「昨日の話って何?」
 吟遊詩人さんが顔を近づけて来て言った。目が合うと、満面の笑顔。警戒心がひとりでにほどけてしまうような、いい笑顔だった。思わず私も笑ってしまった。顔を引っ張られていたけど。
「なんでもないです。今から食事なんで。じゃ!」
 フジエダさんは早口で言うと、私を抱えて実家の中に戻った。窓から細目で吟遊詩人さんを眺めている。別にそこまで警戒しないでも、と思うのだが。
 モリマチさんが気配を察知したのか、料理を作っている人たちの頭上を飛んで近づいて来た。心配そうな顔をしている。
 フジエダさんはモリマチさんと私を見て言った。
「シミズさん、今後あれには近づかないように」
「え、でも実際間者かどうか分からないし」
「スパイかどうかはこの際置いといて、怪しいのがもうやばいの。半巨人が人間をどうやって殺していくか聞いたことないの?」
 スパイって間者のことらしい。フジエダさんのくせに私の知らない日本語を知っている。それがなんだか、酷く腹の立つことのように思えた。
「ヌマヅさんはそんなことしないよ」
「人間でもないもの、信用しすぎ」
 私はフジエダさんの顔を平手で殴った。
「生まれだけで何かを悪く言うな」
 それまで料理を作っていた皆がびっくりした顔で私を見ている。
 私は胸を張った。
「行こう、モリマチさん。ここは人間しか信用されてないみたい」
 私はあっちこっちを見るモリマチさんを手でくるんで歩いた。吟遊詩人さんの方に歩いて行く。
 すごく、裏切られた気分。良い友達だと思っていたのに。それをいうなら日本の日本人だって、本当に私たちと同じ人間かどうかは分からない。