第十三話
「月」

希望世界 エルス ・高速道路

 空を飛ぶことは人間には無理だと思った。
 夜の空は恐ろしい。私は数秒でどっちが上で自分がどちらにいるのか分からなくなった。ただ方向は明確でないものの、内臓に圧は掛かっている。
 気分が悪い、気持ち悪い。目が回っているような気になる。口の中が酸っぱくなる。

 灯りの一つもつけずに女の子は鼻歌を口ずさみつつ空を飛んでいる。私はその姿を必死に追いかけた。その姿を見て上下を判別した。実際はどうか分からないが、とりあえずこっちが下と決めたら、気持ち悪いのが落ち着いてきた。
 そうか、月を見ればいいんだ。私は首を振って月を確認した。霞がかった月は変わらぬ位置……相変わらず私の目から見て30度ほどの場所を動いている。
 ということは、地上からそんなに高くを飛んでないということだろう。私の目では有意差があるほどの高さではない。

 月と地球の距離は日本側の観測で38万km。長さと角度があれば計算で高度を推定できる。月の軌道データもあれば速度も割り出せる。もっとも、月を使うよりは北極星を探した方が良いはず。軌道データがいらない。

 浮き上がったときと同じくらい唐突に着地した。衝撃も何もなかった。
「この人のこと?」
 女の子は座り込んだフジエダさんを指さして言った。フジエダさんは泣いていた。
「その人が抱いている子です」
 女の子は瞳の中にある膜を開いた。人間にはない器官で、閃光や衝撃から目を守る機能がある。支配種族である大妖精とはいえ、目や頭などの複雑な器官は再生までに時間がかかるから、こういうのがあると聞いたことがある。本当かどうかは分からない。

「んー」
 女の子は明るい髪を揺らしてフジエダさんの手の中にあるモリマチさんを見た。前より酷い状態になっている。
「この身体は駄目だね」
「そんなこと言わないでください!」
 思わず大きな声で支配種族に反論してしまった。殺されても仕方ない状況だったが、お目こぼしされた。というか、軽く無視された。
 女の子は小さく歌を歌うとフジエダさんの手の中のものを空中に浮かべた。
「城の中で新しい身体をあげる。私の後継者用のストックがあるから」
 意味はよく分からないが怖い言葉だった。私はフジエダさんと抱き合って、これから来ることに身構えた。そしてそのまま空中に浮かんで空を飛んだ。またも上下が分からなくなる感覚。すぐに月を探す。指さしてフジエダさんにも月が分かるようにした。
「月がどうしたの」
 フジエダさんは上下の感覚喪失などないらしく、不思議そうな顔をしている。不安そうな目は変わることはなかったけど、これはモリマチさんを案じての話だろう。
「ごめんなさい、一所懸命走ったんだけど、遅くて」
「ううん。助けを連れてくるなんてすごい。しかも大妖精なんて、生まれて初めて近くで見ちゃったよ。良く殺されなかったね」
「人間の言葉が通じたの」

 前を飛んでいた大妖精の女の子が、飛びながら振り向いた。
「失礼な事いうのね! あなたたち。そんなこと言うと握手してあげないんだから」
 すみませんすみません。抱き合ったまま、私たちは謝った。確かに助けられておいて言う言葉ではなかった。
「ところで、なんで握手なんですか?」
「知らないなんてオタクの風上にもおけないわね。握手で友情を確かめるのよ」
 何を言ってるんだろう。この子は。
「オタクっていうなら、シミズさんも相当だよ。ね」
 フジエダさんが対抗するかのように言った。何を言ってるんだろう。この子は。その2。
 そもそも対抗する意味が分からない。そしてオタクとは秘めるものだ。オープンオタクはリスクが高い。特にこっちの世界では。
「ふうんオタクなんだ」
「違います」
「しかも腐ってるんだよ」
「違います違います」
「ふうん」
「そこ納得しないでください」
「別に隠さなくてもいいじゃん。シミズさん腐ってても私たち友達だよ」
「おいサッカー女、黙れ」
 大妖精の女の子は頭の王冠を少しずらして屈託なく笑っている。人間離れしたかわいらしさだ。まあ、人間ではないのだけど。
「私、シズオカさん」
 自分で「さん」を付ける人をはじめて見た。これが支配種族か。
「シミズです」
「フジエダだよ」
「もしかして二人とも日本の教育を受けて?」
「はい。私たち高校生でした」
「女子高生と言った方がよくない?」
「意味分からないよ、フジエダさん」
 私はフジエダさんの顔を見る。妙におしゃべりではしゃいでいる上に攻撃的な感じからして、フジエダさんは調子がおかしい。
 モリマチさんの事が心配すぎるんだろう。私はため息をついてフジエダさんを抱きしめた。急に泣かれて困った。
「どうかしたの?」
 シズオカさんが不思議そうな顔で言う。私は苦笑いしか向けられなかった。大妖精には血も涙もないというけれど、それは本当のようだった。それとも単に分かってないだけかもしれない。
 私は口を開いた。
「友達が心配なんです」
「友達?」
「小妖精のモリマチさんです。助けてもらおうとしている」
「小妖精を友達にするなんて、変わっているわね」
「でも友達なんです」
 シズオカさんは笑うでもなく、あざけるでもなく、ただ不思議そう。小妖精がどういうものか知っている人の反応としては最上に近いものだったが、私としては、ちょっとくやしかった。