第一話
「始動」

希望世界 エルス ・清水

 幸せの絶頂がいつだったかと言えば、N高に通っていた、というより、通信していた頃だ。確かフジマエと言ったか、そういう名前の人が、これからは教育を充実させるべきだとか言って、各地の子弟に日本風の教育を施すことにしたのだった。
 その時私は12歳。小学生、良くて中学生程度の年齢だったのだが、高校に入学した。大人の事情というか、適当な受け入れ機関がなかったせいらしい。それでも学校は楽しかった。特別カリキュラムもあったし、暇を自称する生徒が勉強を見てくれもした。
 話し言葉は絶技の翻訳が効いても、書き言葉はそうでもない。私は日本語を覚えるのに苦労した。それでも、皆が応援して手伝って、時には怒ってくれたので、どうにかこうにか日本語を読み書きできるようになった。この文章も、日本語で書いている。忘れないように。これを忘れたら、私はクラスメイトまで忘れてしまうかもしれないから。
 私は幸せだった。その頃は高速道路もなかったけれど、それでも幸せだった。毎日日本に触れて、毎日勉強して、そして友達がいた。

 それももう、3年も前のこと。今はあまり悲しくもなくなって、通信が途切れた時を思い出さないと涙も出ない。悲しい。悲しい。
 幸せというものは酷いものだ。それがあったというだけで毎日が悲しい。日本は何故滅んだのだろう。
 眼鏡を上げ、ハンカチで涙を拭いていたら、扉を叩く音がした。
 私がこんなに悲しんでいるのに。またくそばばあか。私は耳を塞いでしゃがみ込んだ。するとさらに扉を叩く音が激しくなった。くそばばあ、くそばばあ。なんで私が悲しんでいるのが分からないのだろう。
 扉を睨んでいたら、扉が壊れた。酷い話だった。滅茶苦茶だ。扉を蹴破ったのは人間の女。破った隙間から入ってきたというより飛んできたのは小妖精で、私の前で腕を組み、器用なことに滞空してみせた。滞空、先生はホバリングって言ってた気がする。大きさは15センチには届かないくらい。クラスの男の子が持っていたロボットのプラモデルみたいだ。

「3年も経ったのにまだめそめそしてるの? シミズさん?」
 小妖精は、そう言った。瞬間、殺意が湧いた。怒鳴りたいが、どう怒鳴ればいいのか分からない。分からないので、ノートに悪口を書いた。書いていたら目の前に近づいてきた。
「どうしたの?」
「……わ、悪口、書いているんです。あなたの」
「言えばいいじゃない」
 くそばばあみたいなことを言う。喋るのが苦手な人がいるということなんて、まるで考えてもいないような言い方だ。私はさらに悪口を書いた。書いているうちに泣けてきた。
「もう、本当に泣き虫ねえ」
「だだだれのせいふぁ」
 小妖精は私の頭をなでた。お前のせいだということが分かってない。この小妖精は何も分かってない。泣き止んだらノート一杯に悪口書いてやる。
「あんたがあまりにも泣くから、遠く離れたモリマチまで聞こえてきたのよ!? それでこのお姉さんが、ばっちりやってきたわけ」
 日本語がおかしい。私は小妖精を睨んだあと、日本語がおかしいという事実にびっくりした。日本語だ。日本語だった。
「なんで日本語使えるの?」
 小妖精は空中で滑った。凄い。達人級の飛行術だ。
「おいこら、シミズ。同級生の顔まで忘れたんじゃないでしょうね」
 私は眼鏡をかけ直して小妖精の小さい顔をまじまじと見た。言われてみれば、見覚えがある。
「モリマチ、さん?」
「そう! お姉さんがあんたが泣いてるというからわざわざ来てあげたのよ」
 どうやればそこまでふんぞり返ることができるのかという様子で、モリマチさんは空中で胸を張った。
 蹴破られた扉を見れば、蹴破った女の子が小さく手を振っている。こちらにも、覚えがあった。
「やほー。元気だった?」
「フジエダさん」
 実際会ったのは初めてだったが、毎日顔を合わせていたクラスメイトだった。日本人はいないけど、よく考えたらこっちの、希望世界の子は私と同じく取り残されていることに気付いた。
「フジエダさんも、あんたが心配だって言うからついてきたのよ」
 モリマチさんはホバリングしながら言った。
「あはは。サッカーの選手集めとも言うけどね」
 フジエダさんが寄って来て、笑いかけた。元々、あまり仲良いという感じではなかったけど、それでも会いに来てくれたことが嬉しく、私はまた泣いた。この感動はノートに書かないといけない。
「何してるの」
 モリマチさんが難しい顔をして言った。
「……感動、書きためようと思って」
 モリマチさんとフジエダさんが顔を見合わせたあと、私に抱き着いた。
「もう、何言ってるのよクラスメイトでしょ」
 モリマチさんはすりすりして言った。
「そうそう。こんなこと普通だよ。前よりずっと道も安全になったしね」
 フジエダさんのハグは、かなり痛かった。
 止まっていた時が、また動き出した気がした。