第三十七話
「逡巡」

希望世界 エルス   駿河湾沼津 するがわんぬまづ

 この日の修行は、全くダメだった。ダメだと思うとさらにダメになるもので、これがダメダメなのかとスルガさんは初めて理解した。
 ツッコミが入らない。小鳥に、かすりもしない。前からそうだという話もあるが、スルガさん的には違うのだった。前より全然ダメ、である。

「なんで避けるのよ!」
「いや、当たると危ないし」
 癇癪を起こし、以前のように足を踏み鳴らしてスルガさんは怒った。これもまた、今だって足を踏み鳴らしてはいるのだけれど、それはそれでまた違うのであった。物事の差はいつだって僅かだ。
 ついには涙まで出そうになって、スルガさんはベッドに入ってしまった。いじけた。布団に丸まって怒った。
 小鳥は翼を振ってなんでやねんと言った。布団の塊は怒っているのか、小さく揺れた。

 今や布団の塊であるスルガさんは思った。もやもやする。でも、なんでもやもやするのかは分からない。
 小鳥は翼で頭を掻いたあと、チッチッチと、踊った。
「今日は調子悪い?」
 布団の塊は揺れた。
「そういう日もありますよ」
 小鳥の慰めで、布団の塊の動きが止まった。スルガさんは顔を出した。
「もやもやしてるの」
「職場はもやもやするものです」
  石清水 いわしみず が菩薩みたいな鳥の顔で言うと布団から手が出た。
「なんでやねん!」
「そうそう」
「ちがーう!」
 スルガさんは手と顔をひっこめた。布団の塊は怒ったかのように、揺れた。小鳥は周囲を羽ばたいたあと、困ったと嘴を動かした。
「真面目に聞くけどどうしたの?」
「もやもやしてるの」
「なんでもやもやしてるの」
 布団の塊は死んだように動かなくなった。
 動かないまま、弱弱しい声だけが聞こえてくる。
「分からない」
「まあ、そういう日もあるよね」
 小鳥は踊りだした。布団の塊はじっとした後、また顔を出した。
「イワシミズは原因分からないの?」
「分からんなぁ」
 頬を膨らませるスルガさんは、思い切って口を開いた。
「イワシミズはヌマヅって半巨人のものなの?」
 スルガさんは凝視するが、小鳥は気にしてない。
「ヌマヅ? 知らない子ですね。日本語っぽくもあるけれど」
 あの半巨人に真偽を見極める絶技を使えば良かったとスルガさんはそう思った。いや、小鳥に絶技を使おうか。でもそれは負けな気がする。
「イワシミズの奥さんって、半巨人なの?」
「いや、アマゾネスです」
「なにそれ」
「伝説的ナ女戦士デス」
「なんで震えてるの」
 小鳥は倒れた。
「今日は僕も調子が悪い。ほな、さいなら」
 小鳥は飛んで行ってしまった。スルガさんにもやもやだけが残った。

 一人になるとスルガさんはベッドの上で体育座りになって、なんでこんな気分になるのだろうかと考えた。よくわからない。よくわからないがもやもやする。ああ、そうか、よくわからないのが駄目なのだと思った時には夜だった。それでそのまま寝ることにした。
 目を瞑ってしばし、寝れないので起きる。練習でもするかと思ったが、それはそれで音が響いて館に住む者たちに迷惑がかかるであろう。
 つまりやる事なし。ベッドの上に倒れこみ、スルガさんはじたばたした。
 小鳥が悪い。いや、あれが何の役にも立たないことはよく知っている。問題は何の役にも立たない家来でも、私の物であり、他人に所有権を主張されるともやもやした。
 いや、別の家来ならこんな気分になったろうか。そう考えてスルガさんは動きを止めた。思ったよりイワシミズを大事にしている自分に気付いて、倒れた。領主として君臨するならともかく、支配種族である大妖精にはあるまじき考え方だった。これでは平等に統治するなどできるわけもない。
 父である前領主も、こういう気分だったのだろうか。最近、亡父ともっと話をしておけば良かったと思うことが多い。過ぎ去ったこと、失われた事を悔やんでも致し方ないのに。スルガさんは一人、ベッドでため息をついた。イワシミズを家来にしてから、ついぞなかった事だった。

 このまま眠れる気にもなれず、スルガさんは夜着の上に軽い上着を羽織って、バルコニーから空に出た。透き通る羽根が月光に照らされて輝いている。街を見回りしよう。まあ、うっかり朝になって小鳥が心配しても、知らない。心配してしまえとそう思った。

 つーんと飛んで、真っ暗の街の上を飛ぶ。いや、真っ暗ではない。一か所、裾野に近いあの一角だけ明かりが見える。裾野に近いという事は庶民が多いところということか。
 飛んで来て見ればいつかの女半巨人が仲間とともに酒を飲んでいた。まったく、だらしない生活ねと言ってやりたいが、姿を見せるのも億劫だった。言ったら言い返されるだろうし、そうなったら、ツッコミを入れたくなる。
 それで、黙って上から覗くことにした。女半巨人は酷い酔っ払いぶりだった。樽がいくつも転がっている。酒の原料である芋も穀物もまだまだ貴重品なのにと文句を言いたいが、黙った。半巨人は体のわりに口が小さいので栄養の多くを飲み物で摂取すると聞いたことがある。つまり酒は食事と同じか。だとすれば言うのも悪い。

 女半巨人は倒れ伏し、イワシミズの名を呼んだ。スルガさんは心が凍りそうになった。
しかも女半巨人、そう、ヌマヅさんとかいった……目に涙を浮かべているではないか。やはり女半巨人が妻だったのではないだろうか。

「イワシミズがいないと笑えないじゃねえか。アタシたちは笑いに飢えてるんだよ」
 ヌマヅさんのつぶやきでスルガさんは落ちた。