第三十六話
「イトウ」

〇川崎市 フットサルコート

 その頃 艦橋 かんばし は、川崎のとあるフットサル場で深く静かに怒り狂っていた。ボールを蹴りつつオタクの心を弄びやがって! である。
 職場の同僚というだけで別段小久保に思うことは何もないが、色仕掛けとは卑怯というか僕たちの弱点を突きやがって! という気持ちはある。
 それで、腹が決まった。なにあれ僕はあのイトウという女の敵だと決心した。世の中どうにも我慢できないものがあり、そのうちの一つが子供に嘘をつくことで、もう一つが色仕掛けで純情そうな人を騙す事だった。いや、全般として僕は嘘が好きではないのかも。
 嘘ではなく、単に弱そうな人の弱い部分を突くのが嫌だなあと思うだけか。自分が正義漢というには程遠いと思ってはいるが、いや、だからこそああいう連中は好きでない。

 うん。問題はどう、敵対するかだ。敵の狙いも分かったものではない。そもそもなんで監視していると明らかにしたんだろうか。そこから考える必要がある。
 ボールを蹴り損ねる。怖がるばかりで、僕はまともに敵を見てなかったな。

 指折り数えるように事態を確認しよう、そうしようとプレイしながら艦橋は考える。
 謎の組織イトウがあるとする。実在は間違いないので、これについては議論の余地がない。
 イトウはなぜ僕の監視をしていると言いに来たのか。これについては全く分からない。一旦保留する。
 イトウは僕だけでなく、僕以外にも手を広げてきている。つまり、小さい組織でもないし、僕だけが狙いというわけでもない。
 イトウの狙いはなにか。まあ、 希望世界 エルス だろう。他にあるとは思えない。希望世界の何が狙いなのかは分からない。ただ、今というタイミングからして、 藤前 ふじまえ さんの動きから世界間の移動について可能性を感じ取った、と捉えるのが自然だろう。
 そうそう、イトウは上司というか上の方に言っても無駄だと言っていたな。ただこれは、信用できるかどうかあやしい。
 サッカーに置き換えるとどんなことだろう。そうか、僕はマークされているというわけだ。それもあからさまで厚いマークだ。敵は僕の動きを封じたいというわけだ。僕が得点源になると思っているのかな。
 イトウは僕が何をやらかすと思ってるんだろうか。僕がこの話を公表したり、政府、もしくは諸外国にこの話を持っていくと警戒しているんだろうか。それとも、この話を秘密にしようとしていることを嫌がっているのか。
 もし、イトウが僕と同じで事態を秘密にしたい、というのなら話は早いんだが、まあ、その前に平手打ちの一つもさせろとはいいたい。

 正面からボールを受けた。頭に直撃。ヘディング、ではなくて考え事していたせい。一緒にプレイしてた人たちから心配されるが、眼鏡が割れて鼻血がでている程度で、どうということはない。
 ベンチに座って、鼻血を流しながら考える。

 しかし、イトウは僕と交渉したり、話を聞いたりするつもりはまったくないようだった。なんでだろう。話して話を聞く方がよさそうだが。あー。
 遠い目。小久保さんは今頃なんでも、ほいほい話している気がする。なんだかなー。僕だけ頑張る意味あるのかな。いや、ああいう連中の好きにさせるのは嫌だ。仮に味方でも一発ひっぱたきたい。

 隣に人が座った。
「鼻血大丈夫ですか」
「大丈夫です」
 無意識にそう言ったあと、目を剥いた。イトウと名乗ったあの女が、ユニフォームを着て隣に座っていた。しかもご丁寧に薬箱まで持っていた。
「……あんた……」
 イトウはにんまり笑ってVサインなどして見せた。
「何か?」
「小久保さんとデートしてたんじゃないのか!」
 女は小首を曲げて不思議そうな顔をした。あれ、間違い?
「いえ。デートの約束はまだ、ですけど」
 少し早とちりだったらしい。上げかけた拳をどうしようかと迷ううち、うっかりティッシュを受け取ってしまった。鼻に詰める。
「なんですか。なんなんですか。何が狙いですか」
「いえ、鼻血を出されていたんで、救護です」
「何が狙いだ!」
「声が大きいと、静かになってしまうかもしれませんよ」
 笑顔で言われると、怖い。
「どどどど、どういう……?」
「まあ、年に何度もあることではないですけどね。あれからこちらの調査も少し進みまして」
 イトウを名乗る女はそう言って口を開いた。
「前にいた会社で複数の外国人に接触してましたよね」
 それが、と顔を見たら、イトウは肩をすくめた。
「そのうち一人がうちの重点監視対象だったんです。システムにバックドア仕掛けようとしてたり、機密情報持ち出したり……」
「あんたというか、あなたたちは?」
 女はえくぼを作って笑った。
「まあ、それについてはどうだっていいじゃないですか。普通に生きていれば私たちとはなんの関係もないでしょうし」
「分からないと気持ち悪いじゃないですか」
「なるほど。好奇心旺盛なんですね。でもそのおかげで怪しまれていると思ってください。あなた自身に特定の国との繋がりやデッドポストがないのは確認しています」
 ティッシュペーパーをひらひらさせながら、女は言った。デッドポスト?
「死んだポストってなんです?」
「さあ、なんでしょうね。ともあれ、あなたが怪しい動きをしているので、我々はあなたを調べることにしました。家族構成にこれまでの人間関係、特定の思想との接触……」
「あの、冥土の土産モードみたいになってるんですけど」
「だいたいそうです」
 艦橋は走って逃げようとして柱にぶつかった。あまり目が良くないのだった。

「大丈夫ですか」
「大丈夫じゃない!」
 叫んだところで女は自分の口鼻にティッシュをかぶせて香水スプレーをプッシュした。艦橋の意識が飛んだ。