第二十六話
「傷」

希望世界 エルス   駿河湾沼津 するがわんぬまづ  領主の部屋

 ドアの外に、小さな小瓶が置かれていた。なんだこれはと思ったが、とりあえず拾った。爆発物ではなさそう。
 スルガさんは小瓶を小さく振って、首を傾げた。
「ねえ、イワシミズ、これは何?」
「チッチッチ、小鳥にそんなこと聞いても無駄さ」
 スルガさんの連続キックを小鳥は華麗に避けた。膝をスナップさせての変幻自在の蹴りさえ小鳥は風に揺れる柳のように避けて見せる。
「やるわね」
「なんのこと?」
 翼を広げて小鳥は言った。完全にバカ面だったが、スルガさんはため息をつくだけに留めた。小瓶を顔に近づける。何が入っているんだろう。
 驚きの叫び声が聞こえてスルガさんは瓶を取り落としそうになった。慌てて空中で拾う。
「ニホンでは大声出すなって教わらないの?」
「足を怪我してる!」
 スルガさんは短詠唱絶技。光の矢一本を飛ばした。小鳥は避けた。すかさず蹴りで追撃。これも避けられた。
「今さらか!」
「うん。今のツッコミはよかった」
 時々本気で焼き鳥にしたい時がある。今日がそうだった。スルガさんは不覚にもちょっと泣いた。今頃気付かれるくらいなら、無視してくれていたほうが良かった。
 小鳥はチッチッチと横跳びしている。
「なんで怪我を……」
「前から怪我してたわよ。あとこれは地面を歩かせるから」
「なるほど。土踏まずできたとか言ってたもんなぁ」
 スルガさんは表情を変えずに高速ジャブを放ったが、これも避けられた。鞭のようなしなる拳ならばと思ったのだが。
「というか、血が出ているなら言ってくださいよ」
「見ればわかるでしょ!」
「いや、それがメインモニターが壊れてて」
 スルガさんはキックキック絶技からの回し蹴りを放ったが避けられた。前より軽く避けられてショックだった。結構練習したと思ったのに。
「意味わからない!」
 スルガさんの言葉を、小鳥は肩をすくめて受けた。
「まあ、気にしない。えぇと、治療しないと」
「絶技で治すからいい」
 小鳥はスルガさんの手の中の小瓶を見ている。スルガさんも目をやった。
「なに?」
「それ、傷薬では」
「傷薬? 誰が?」
 昨日覗き見していた使用人かもしれない。不意にスルガさんは何もかも分かったような気になった。瓶をあけて匂ってみる。臭い。本当に薬なんだろうか。それにしても薬なんて、なんて愚かな人間だろう。絶技で治せばいいのに。
 まあでも、一応大事に小瓶を持つことにした。封をし直して、ポケットに。
「まったく愚かな人間たちね」
「なんで照れてるの」
 スルガさんは執拗にキックを行った。大振りで当たりにくいが小鳥が遠ざかる時に届くのは脚技しかない。これまた全部避けられた。小鳥はバレルロールからインメルマンターンして避け切っている。もはや鳥ではない。
 悔しい。もっと、もっと修行しないと。
 一日中修行したいが、領主の身ではそれができない。くやしいと思いかけて、お父様から受け継いだのだと、思い直した。修行だけが楽しいとか、間違っても言いたくなかった。小鳥がチッチッチと笑ったら、酷く傷つくと思うから。
 着替え、執務室へ向かう。これまで傍にいたはずの小鳥が羽ばたいてどこかに行ってしまった。新手の修行だろうか。でも。付き合えない。
 大股で歩いて執務室へ。
 資料を出し直すと言っていた連中が並んで木簡を差し出している。スルガさんは脚の一振りで木簡のすべてを空中に舞わせた。目で文字を追いながら両手で全部の木簡を空中で拾って並び替え、机の上に置いた。
「数字が違った分が、まとめて聞いたこともない予算項目になっているのだけど」
 そう言った瞬間に全部の部下が逃げ出した。一人になった。ツッコんでやればよかったかしらと思ったが、あんな遅いものにあてても気は晴れない。
 誰もいなくなった執務室で空中に浮き、腕を組んでくるりと回った。あの小鳥の回り方、いけるかもしれない。
 ともあれ部下がいないと仕事にならない。そもそもスルガさんの仕事とは、人間の部下が持ってくる木簡に裁可の焼き印を入れる事だった。父親がそうしていたのでそうやっていたのだが、部下がいなくなるという事態はかつてなかった。参った。
 イワシミズに相談しようかと思って、思い直す。どうせボケるに決まっている。さもなくば、こまけぇことはどうだっていいんだよだ。まったくあてにできない。
 腕を組んだまま空中でくるくると回る。退席の許可も出してないのに逃げられたことに今頃気付いた。まあ、こまけえことはどうだっていいのよ。
 しかし仕事ができないのは困る。そこで執務室から外に出た。ドアの外にいた数名が慌てて離れて平伏した。一人の人間には覚えがある。昨日、覗いていた使用人の女だ。
「傷薬ありがとう」
 そう言ったら、感動の目で見られた。よくわからない。いや、今はそれどころではない。
「さっき慌てて出て行った連中は?」
「逃げ出しました」
 なぜ。と思ったが、それを聞いても平伏する者たちには分からないだろう。スルガさんはため息。
「仕方ないわね。代わりになりそうな人間を集めて」
 皆が当惑した顔をしている。ボケにも至ってない点で、何か問題があるのだろう。何が問題なのか。まあ、ボケに力がないということか。
 傷薬を置いていた使用人の女が、顔をあげて青い顔で言った。毒をあおるような顔をしているのが、とてもヘン。
「名家のものは皆逃げ出しました」
「そう。でも人間の名家というのは計算を間違えたり、項目を誤魔化したりするの?」
「税金の使い道でしょうか……いえ、いえ、そんなことをするものは名家のものではありません! そうであってはなりません」
「そうよね。代わりはいる?」
 使用人の女は平伏した。他の皆も平伏した。
「前例を破りますが、探してまいります。お嬢様」
「こまかいことはどうだっていいのよ。急いで。仕事時間は短いし、私は修行しないといけないわ」